
こんにちは!みうみです。
2月より入院していた父が、急逝しました。入院したころは、オミクロン株の流行で感染者が激増していた時期です。
大学病院に二ヶ月半入院し、その後転院、20日間ほどで旅立ちました。
入院したのも急で、逝去したのも急でした。
死因は「誤嚥性肺炎」。起因するものは「アルツハイマー型認知症」と、日用品の誤食による身体への侵襲などと記載されているようです(母から伝え聞いたので正確ではありません)。
入院直後は、呼吸器装着と緊急的な血液透析をして、しばらくは生死をさまよいました。
しかしながら大学病院での治療や看護、リハビリは素晴らしく、一時は介助が必要なもののトイレや車いすに座ることも出来るようになりました。
1か月が過ぎたころ、家族が面会し、ナースさんと談笑する父を見て安心したと言っていました。スプーンを使って食事をするまでになっていました。
しかし東北に大きな地震が来た夜、腸に異常が見つかり、痛みを取るため麻薬を使うようになりました。手術は受けず、経管栄養が再開され、膀胱留置カテーテルも再度挿入されました。肺は誤飲したものダメージが大きく、血中酸素飽和濃度が上がらないため、常に酸素吸入を受けていました。
2回目の厳しい状況も、懸命な治療で助けていただき、車いすで座位保持が出来るようになった4月下旬、大学病院を出て転院しました。
転院時に、家族が付き添いました。
転院した翌日には、「誤嚥性肺炎」で発熱と、ゴールデンウィークが明けようとしたころに、「もう息を引き取るところ」と連絡が入ったようです。
亡くなる3日前に、娘Aがおじいちゃんが死ぬ夢を見たと言いました。
同じころ、母がキッチンを誰かが歩いている「お父さんは大丈夫だろうか」と言いました。
亡くなる1日前、電話を掛けてきたことのない父の兄が実家に電話を入れてきて、「この2~3日、家の中を歩く気配がする。これは弟の様だ」と言っていたようです。
息を引き取る瞬間にも、家族は立ち会えず、霊安室で対面したそうです。遠方の私ももちろん会えていません。
コロナ禍で、面会は病院がお願いした人だけとか、一家族月1回だけとか、そんな制限がありました。
3か月で2回しか面会が出来ず、父は毎日、病院の天井を眺めていたのでしょうか。
一緒に住んでいた家族とは折り合いが良い方ではなく、生前に父が希望していた埋葬法や戒名は要らないなどということは、家の都合にも合わないため変更されました。家が近いからと、葬祭会館に一人置かれている時間が殆どだったのも「時代だから」・「怖いから」などと理由付けをされていました。一度も家に入れず、すぐに納骨とされたことも、寂しい気がします。
捨ててしまったからと形見分けも、遺影のコピーももらっていません。診断書も見せてもらっていません。相続は、家族が仕事の困難時期に有り、放棄の話ばかり。
たくさん出てくる気持ち、感情の置き場がない状態です。
「心配しなくていいがら」と、また父の声が聞こえてきそうです。
親を見送るという・・人生の一つの仕事を終えました。
私は、「今日」という一番若い日を大切に、毎日過ごさなければと思いを新たにしています。
先日、ムーミンビレッジパークで買った北欧柄のエコバック。

広げるとバラが沢山咲いていて、気持ちが明るくなります。

お読みいただきありがとうございました。
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